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ろうかをあるくひと
『廊下を歩く人』

― 高知県 ―
話者 高橋 光加
再話 市原 麟一郎
整理・加筆 六渡 邦昭
語り 井上 瑤
提供 フジパン株式会社

 私の父は、怪(あや)しいものをてんで信じない人でした。
 昔、まだ道路がついていなかった頃(ころ)、高知に用のある人は、みんな相川(あいかわ)の山を越(こ)え、土佐山(とさやま)を抜(ぬ)けて行かなければならなかったといいます。
 その頃は、途(と)ちゅう、森林がうっそうとした深山(みやま)を通る道が何里も続いてあったそうですが、父はたいていその往復(おうふく)は夜分(やぶん)を利用したとのことです。

 
それでも一度も怪しい目にあったことがなかったので、世の中には理屈(くつ)にあわないことは決してない、というのが父の持論(じろん)でした。
 
廊下を歩く人挿絵:かわさき えり

 
 子供の頃、私たちが狸(たぬき)に化かされた人の話などをしていようものなら、
 「阿呆(あほう)いうな。狸が人を化かす力があるなら、世界はとうの昔に狸のものになっちょらあや」
と、けなし、また幽霊(ゆうれい)が出たという噂(うわさ)に脅(おび)えていると、
 「死んだもんが化けて出て来れるんじゃったら、こればぁ(くらい)有難(ありがた)いことがあるか。そんなことが出来りゃあ、俺(おれ)ぁ死んだ母に会(お)うてみたいぜや」

 こういう調子でした。
 父にとって恐(こわ)いものがあったとすれば、ガマぐらいのものでした。
 ところが、この父が晩年(ばんねん)、私たちにたった一度、こんなことを言ったことがありました。

 
 「おかしげなこともあるにはあるもんかねや。俺が本川(ほんかわ)の高藪(たかやぶ)という学校を建てに行っちょった時のことよ、ありゃあ、たしか昭和二十五、六年頃じゃったと思うが、夏休みじゃったけん、先生が一人、宿直をしよった。

 ある晩、長沢(ながさわ)に映画(えいが)があっての、長沢へはそこからだいぶ歩かにゃいかんが、あの辺は映画もめったになかったけん、俺が連れていちょった若い衆(しゅう)もみんなぁ見に行てしもうての。そしたら宿直の先生も『山中さん、すまんけんどお願いします』いうて、宿直の代わりをを俺に頼んじょいて、映画を見に行たわや。
 俺ぁ一人、古い校舎(しゃ)で寝(ね)よった。
 夜中に妙(みょう)な音がしたにかあらんと思うて目が覚めたの。


 じっと聞きよったら、コツコツいうて廊下(ろうか)を誰(だれ)ぞ歩く音がするねかや。ひょっと盗っ人(ぬすっと)かも知れんと思うて、こっそり廊下へ出てみたら、ちょうど職(しょく)員室の前で、一人の男が立ちっちゅうぞ。
 職員室にゃ電気が灯(つ)いちゅうけん、はっきり見えたが、マントを着た学生みたいような男じゃった。
 
廊下を歩く人挿絵:かわさき えり


 夏じゃというのに、その男がマントを着ちょるけん、ひょっとしたら気狂(きちが)いが迷うて来たのかも知れんと思うての、じっと見よったら、その男はすうっと職員室の中へ入ったぞ。
 俺ぁ、足音をせんように職員室の前まで行ってのぞいて見たけんど、その男はおらなあや。
 「誰かおるかね」
と、声をかけてみたけんど返事もせにゃ、コトとも音もせん。机の下をすかしてのぞいて見たけんど、人の影(かげ)らしいものは無いわや。
 おかしいこともあるもんじゃ、と思うて、もとの教室へ戻って寝よった。


 それからしばらくして、映画からみんなが戻って来たが、俺ぁ何も言わず、その晩は黙(だま)って寝ての。朝になってから宿直の先生に、
 「ゆうべこうこうじゃった」
と話いたら、先生は、
 「ああ、あれ見ましたか。あれはこの近くの墓(はか)から来るにかありませんぜよ。ぼくらも再々(さいさい)見ます。なんちゃあ悪いことをせんもんじゃき、それにもう馴(な)れたき、今は格(かく)別なんとも思わんようになりましたけんど、初めのうちは、正(しょう)、気味が悪かったですよ」
という話よ。


 どこか、県外の学校へ行きよって死んだ人にかあらんと言いよった。
 俺ぁ、そのときやっぱり不思議なこともあるもんじゃと思うたわや」
 父は複雑(ふくざつ)な表情で、そういうのでした。

高知県
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